連歌師宗長





連歌師宗長は文安五年(1448)の誕生である。
静岡県島田市の鍛冶職の家に生まれたという。「下職の者の子ながら、十八にて法師になる」(宇津山記)

十八歳で宗長は駿河守護の今川義忠に仕えた。(右は義忠の木像である)

文正元年(1466)秋、都の連歌師宗祇が関東に下向する途中、験府に立ち寄り、義忠を訪ねた。


義忠の仰せで、宗長は宗祇を名月の清見が関(清水市興津)に案内した。


この宗祇との出会いは、若き宗長の一生を決定づけることとなった。


文明八年(1476)義忠が戦死した。




この前後、宗長は京都に上って宗祇の門弟に加わった。その後、宗祇に同行して、宗長は各地を旅した。

 こうした連歌会や旅行を通して、宗長は、公家や幕府の上級武士、越後の上杉氏ら地方の大名や有力国人と親交を持つことができた。 明応五年、宗長は駿河に帰って守護今川氏親の庇護を受けた。

以後、たびたび駿河と京都を往復することになる。文亀二年(1502)宗長は、師の宗祇を連れて関東経由で駿河に向かう途中、宗祇は発病し、ついに箱根の湯本で亡くなった。この事情を記したのが、宗長の「宗祇終焉記」である。 




宗祇没後、宗長と宗碩が連歌界の中心となったが、永正元年(1504)宗長は、静岡市郊外の丸子の泉谷に草庵柴屋軒を建てた。



現在の吐月峰柴屋寺である。右の木像は寺内に現存する。



宗長は、文芸面だけでなく、今川氏親の命で甲斐の武田信虎との講和を成立させるなど外交面でも働いた。




宗長は柴屋軒で最晩年を過ごす。「宗長日記」は、この最晩年、享禄三年〜四年の静かな柴屋軒の生活を記した。



享禄五年(天文元年 1532)三月六日没、八十五歳であった。



大阪の天満宮には、大永五年(1525)九月二十一日、宗長たちが駿府で詠んだ百韻連歌の写本がある。



最初の八句を見る
千秋をも隔てぬ菊の籬哉 梅(正親町三条実望) 当時、駿河に滞在してた
紅葉の山の庭の松が枝 宗長 
照る月の移ろふ軒端夜ならで  相(正親町三条公兄) 三条実望の子息
雁は雲井の明け方の声 氏兼(関口) 今川氏親の家臣
出でて休らふ遠の旅人 泰昭  京都・青蓮院の坊官
さし返る舟にしばしの程を経て    泰以(朝比奈)  今川氏親の家臣
川風寒み日こそ暮れぬれ  鶴舟


第一の句の発句には、この連歌が詠まれた秋九月の季語、菊を詠む。秋の句や春の句は三句〜五句続けることになっているので、第二句の紅葉、第三句の月、第四句の雁、第五句の霧も秋の季語である。
(連歌は、この後も続くが省略した)



引用文献

「今川時代とその文化」
「連歌師宗長」より(帝塚山学院短期大学副学長鶴崎 裕雄氏)