享禄三年(1530)三月五日、正二位前内大臣正親町三条実望は駿府(静岡市)屋形町の客舎で68歳の生涯を閉じた。
前後二十数年に及ぶ流寓の果ての死であった。
この地に骨を埋めた実望ついて「戦国大名駿河今川氏の研究」(長倉智恵雄著)を引用しながら足跡を追つて見る。
正親町三条家は藤原北家のなかでも、五摂家とはやや離れた、閑院流三条実房の三男公氏を祖とする。歴代当主は内大臣又は権大納言に任ぜられている。
実望は30歳前後のころ駿河守護今川義忠の女と結婚した。
実望この時、正四位上参議であった。
応仁の乱(1467〜77)は、すでに終結していたが京の都は荒廃してた。
この荒れた京都を逃れる公卿殿上人は多かった。
戦国期駿河に流寓した公卿は三位以上の上層貴族が十数名を数えたというから、それ以下の人たちを加えたら、相当の数だったといわれる。
さて、実望が駿河に下向したのは永正五年(1508)二月二十六日、46歳のときである
応仁の大乱が終ってから、すでに三十年を経過していた。
公卿の地方流寓は荒廃した京都脱出といわれる。
一方そのころ下剋の風潮とともに在地領主の争いや徳政一揆などで農民の実力が向上し、その結果荘園年貢が滞る世となった。
荘園主の実望ら公家たちは、京都にじっとしていられない状態にまで立ち至ったとおもわれる。
今川氏親は流寓の公卿たちを駿府に集め住わせた。
そこはいまも静岡市屋形町と呼ばれている旧東海道に近い一角である。、
商店街、事務所街だが町中に古い神社、寺院があって面影を残している。
正親町三条家の荘園は駿河国に2カ所あった。一つは駿府の西郊外藁科川流域の服織庄、いま一つは山を越えた西側の藤枝市の瀬戸川上流の稲葉庄(郷)であった。
服織庄は屋形町から3キロ足らずの地点であり稲葉庄はやや遠い。いま瀬戸川支流の谷稲葉川の奥に御所ケ谷と称するところがある。実望はそこに別荘を建ている。
実望が実生活において意外なほど貪欲であったといわれている。これは、荘園領主としての権威が低下してゆくのを苦悩した結果かも知れない。
そうした彼が仏道と歌道に救いを求めたのもきわめて自然な成りゆきであった。
とくに歌については柴屋軒宗長という当代一流の宗匠が近くにいたし、国守の今川氏親をはじめ歴々がみな斯道の達人であったから、駿河という国は、彼にとって離れがたい土地であったに相違ない。
そしていつかここに骨を埋める覚悟をするようになったのであろう。
「宗長手記」をみると、大永五、六年(1525〜26)ころは子息の公兄とともに彼の作品がしばしば登場する。
また〔大永六年〕の項に
「慈広院殿いづくやらん御帰に、丸子柴屋たちよらせおはしまして、庭をなかば畑に作て、田屋をむすび、鳴子をかけをきたるを御覧じて、其松木柱にあそばし付らる。あるじは興津しほ湯湯治。」
山畑の鹿のなくねのさびしさをおもふにさぞな老のあかつき |
これは宗長が興津の塩湯湯治に行ったおり、その留守に柴屋軒を訪れた実望が、かたわらの松の木にこのような歌を書きつけて、帰ったというのである。
当時の風雅とはまさにこのようなものをいうのであろう。
実望は、享禄三年(1530)三月五日駿府で没した。享年68歳。
これは「宗長手記」の記述からみて、ほぼ間違いないと思われるが、その葬儀は心岳寺(大永寺)で営まれ、遺骸は谷稲葉の御所ケ谷に葬むられたという伝承がある。
そして同じ谷稲葉に実望を開基とする慈光院が無住ながら心岳寺末寺として現存している。
引用文献
「今川時代とその文化」
(帝塚山学院短期大学副学長 鶴崎 裕雄氏著)