竜 爪 山 の 秣 場

〜静岡古文書研究会が古文書を解読〜


秣場とは、田畑の肥料や牛馬の飼料の草刈り場であった。
秣(まぐさ)は、戦乱の時は軍用馬の飼料として、需要があったが江戸期に入ると、肥料、緑肥という農民には欠かせない資源であった。また、秣場は生活必需品の薪炭、粗朶(そだ)等の確保の場所でもあった。

竜爪山


里山では、「山元村」と「入郷村」の利害が対立し多年にわたり紛争が起こった。
「山元村」では、秣場を切り開き毒荏(どくえ・油桐)栽培に力を入れるが、「入郷村」が、入会地の権利を主張し、それを阻止する紛争がつづいた。ここ竜爪山麓では、二百数十年間続いた。
(油桐は、行燈などの燃料がとれ高価で売れた。)


静岡古文書研究会は、静岡市葵区瀬名の西奈公民館を拠点に活動するグル−プですが、平成14年ごろから、資料収集に当たり、このほど、「古文書 竜爪山の秣場 駿州庵原郡瀬名村」という題名で、A4版205ページを出版した。(写真は編集者)

後列左から 田中省三、澤田藤枝、良知明、児玉博、河野修治、大村利彦、水野茂
左から 望月勇平、石脇孝三、中川百代、小野田富雄、仁藤祥一郎、榊信太郎、三浦和男


そこで、このページでは、同書の概略を伝える。

まづ、紛争に関係する村名を見てみると、現在も使われている地名も多く、影響の範囲の広さに驚かされる。

<山元村>

平山村 長尾村 北沼上村

<入郷村>

瀬名 川合 上土新田 下足洗
沓野屋 柚木 南沼上 古庄
北沼上 栗原 池田 一色
国吉田 中吉田 谷田 中之郷
小田 草薙 楠木 楠木新田
瀬名川 柏尾 押切原 蜂ケ谷
梅ケ谷 山原 石川 下野
高橋 平川地 上原 吉川新田
七っ新屋新田 三町原 七っ新屋 長崎
大内 手ケ谷 鳥坂
39カ村、合計石高 1万6千石



次に、主な秣場紛争を見てみよう。

◆「元禄2年1月(1689)」
入郷27村の延べ2000人が、秣場の隣接地で700余本の立木を伐採。
山元村の上訴で、幕府評定所は、入郷村に過料、入郷村の名主に入牢を申し付け。
◆「明和3年(1766)」
訴えは、入郷村から出され、換金作物毒荏の栽培が、密かに行われいているとした。
仲介者により、山元村の毒荏採取は認めるが、山手銭(入会で納める負担金)を半額にし決着した。
◆「天保12年(1841)」
入郷の瀬名村農民が大挙して押し寄せ、立木を伐採。
理由は、黙認された毒荏の栽培が増え、秣、薪などの刈り取りに支障が出る。
幕府裁定所により、「元禄度御栽許」に立ち戻るように指導される。
◆「弘化3年(1846)」
山元村から上訴。入郷村の農民が古林区域に入り草木を刈り取っているとしている。

この裁定は、静岡古文書研究会の解読作業にふれながら、次ページで述べたい。