元弘3年(1333)5月、足利尊氏(あしかがたかうじ)は鎌倉幕府の京都六波羅を攻め、同じ足利の祖を持つ新田義貞は鎌倉を落とし、ここに150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。
後醍醐天皇は京都に還幸し、天皇親政が始って建武の中興といわれた。

賀茂川と三条大橋


しかし、政治情勢は二転三転するなど混迷の時、滅んだ北条氏の遺児時行は、兵を起こし鎌倉に攻め入った。「中先代の乱」である。
尊氏の弟直義は、鎌倉を逃れて、駿府(静岡市)の手越河原に陣を張ったが、また破れた。そして東下してきた兄尊氏軍とともに小夜の中山の合戦などで勝利した。この時、今川範国(のりくに)の軍勢は敵将を討ち取り、時行軍総崩れの原因をつくった。

手越河原古戦場跡の碑と古い地名の残る化粧橋(長田地区)


中先代の乱の後、後醍醐天皇と足利尊氏は決裂し、尊氏は新田義貞に追討される立場になった。
そして再び、駿河手越河原の戦いとなった。

ここで敗れた尊氏軍のしんがりを今川範国がつとめ、さらに美濃・青野ヶ原(大垣市)の決戦では戦局を有利にするなどの戦功をあげ尊氏の信頼を得た。
そして、遠江国守護に加えて駿河国守護にも任ぜられ東海地方を掌握する第一歩を得た。

静岡浅間神社


範国は、駿府に入って浅間神社を詣でた時、今川軍の笠符「あかとり(髪を結う櫛の意)」が浅間大神の神慮であると誓状を捧げて、神意を感謝した。

笠符「あかとり」



しかし、天下を二分する南北朝の争乱期、遠江、駿河は南朝方の勢力が強かった。



北朝方の今川は、守護といえども東奔西走の戦いの続く日々だった。




そうした中、観応2年(1351)範国は室町幕府の要職(引付頭人・訴訟機関の長)につき、守護職を子範氏に譲った。

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