二の巻:戦国大名義元と軍師の雪斎



富士市今泉に小公園として整備された善得寺跡公園がある。
かっての善得寺は、戦国大名義元と師であり・軍師であった雪斎が出会い共に学んだ地である。

雪斎は、今川家の重臣の子で京都の建仁寺で修行中、駿河守護職の今川氏親から「帰郷し、五男方菊丸(後の義元)の教育」を頼まれた。雪斎27歳、義元4歳であった。


善得寺の修行につづき更に高度な教育をと雪斎は、名を梅岳承芳と改めた義元を連れ京都・建仁寺に入った。その後、妙心寺の名僧大休宗休の弟子にもなっている。




二人が修行した建仁寺は、「五山文学」のメッカであった。「五山文学」とは、南禅寺を中心とした京の五寺が担った漢詩文の創作文芸活動である。
二人が、「五山文学」に憧憬を持っていたことは、善得寺版といわれる「聚分韻略」(作詞の音韻手引書)の印刷と刊行にみられる。天文23年(1554)のことである。
同じ頃、雪斎は静岡市の臨済寺でも中国の歴史書「歴代序略」を印刷している。この時代、地方にあって書物を出版できたのは珍しく、我が国の印刷文化史に輝く功績といえる。

天文5年(1536)3月17日、今川家の当主氏輝は急死した。24歳の若さである。




同じ日、氏輝の弟彦五郎(二男)も死亡した。長男・二男の突然の死は、いまだに謎である。




ここに、今川家の家督をめぐり家中を二分する壮絶な争いが始まった。「花蔵の乱」である。

戦国時代には、長子相続の規程はなかった。年長の玄広恵探(三男)は母方の福島一族とともに藤枝市で兵を起こした。
これに対し雪斎は、梅岳承芳(五男)擁立の多数派工作を行い家臣団をまとめ攻撃に出た。そして恵探側の花倉城(藤枝市花倉・・・「ぶらり藤枝」にリンク)
に総攻撃をかけた。恵探は山を越え瀬戸谷に逃れ、その普門寺で自刃し果てた。二十歳という。

大聖寺所蔵


晴れて当主となった義元は、師僧であり軍師でもあった雪斎の強力な支えを得て領国経営を進め、勢いをかって三河に進出した。天文17年(1548)雪斎は三河の小豆坂合戦で織田信秀の軍を破り、これにより三河松平氏を隷属させた。
これが竹千代(後の家康)の駿府人質に結びつく。



また雪斎は、西方進出の後顧の憂いを無くすため、甲斐の武田信玄、小田原の北条氏康と「三国同盟」を結ばせたのである。後に「善得寺の会盟」といい、雪斎の絶頂期であった。
義元の背後の敵はなくなり、尾張攻略に拍車をかけたのである。







弘治元年(1555)雪斎は、隠居した藤枝市葉梨の長慶寺で没した。
享年60歳。
今川家は繁栄の真っ只中であった。