一の巻:女大名・今川寿桂尼


静岡市沓谷3丁目の愛宕山北麓に、曹洞宗の洞谷山・竜雲寺がある。



竜雲寺に、駿河・遠州・三河の名将今川氏輝、義元のご母堂「寿桂尼」が葬られていることを知る人は少ない。

寿桂尼は、今川家七代の当主氏親の正室で京都の公家中御門宣胤の娘である。
永正5年頃、氏親のもとに嫁いでおり「大方殿」などと呼ばれていた。


寿桂尼

‖―――氏輝(長男)、彦五郎(二男)、義元(五男)、氏豊(六男)
氏親
‖―――玄広恵探(三男)、泉奨(四男)
側室

大永6年(1526)夫の氏親没。
長男・氏輝(14歳)家督を継ぐも若年のため、母・大方殿が後見役にて国政をみる。また大方殿は、髪をおろし出家して「寿桂尼」となった。37歳である。

寿桂尼は、その後自ら領国経営に当たり各種の文書を発給している。
戦国時代の武将夫人で領国支配の文書を出したのは寿桂尼だけで、「女戦国大名」と呼ばれる所以である。


今川家の歴代当主は、いずれも優れた和歌の詠み手である。
遠州今川氏の祖・貞世(法名了俊)は、勅選集に入ったほどの高名な歌人であった。

和歌や連歌には、古典の「源氏物語」「伊勢物語」「論語」等の知識が求められ、伝統文化特に京の公家文化がもてはやされ、当時の地方豪族、戦国大名は競って都の公家、僧侶、連歌師の下向を歓迎したのである。

特に、寿桂尼が公家の出だったところから公家の歌人らの下向がいちじるしい。三条実望、冷泉為和、山科言継ら当時の文人が駿河の地にて歌を詠んでおり、駿府は小京都ともてはやされるほど文化の香りが高い地であつた。
とくに山科言継は、弘治2年(1556)9月から5カ月間滞在したと「言継卿記」にある。

しかし、永録3年(1560)5月19日、義元は桶狭間で織田信長に討たれてしまった。
後を継いだ氏真は、年若く三河、遠江の国人の相次ぐ離反で力を失い、寿桂尼が前面に出て補佐した。
永録11年(1568)3月24日、寿桂尼は没し、駿府の鬼門に自ら開基した龍雲寺に葬られた。80歳近い生涯だった。

寿桂尼の肖像画は、小笠町の正林寺に残されている。

NHK静岡放送局では、コンピューターとハイビジョンシステムによる画像復元に成功、四百年余の歳月に隠された尼僧姿を見事よみがえらせた。

この快挙をなしとげたのは、NHK・井上啓輔ディレクター、髭白守人カメラマン、(株)浜松ホトニクス・大橋義春氏、(株)NEST・西子雅美氏である。

放映は、平成6年4月23日「しずおか歴史探検隊〜女戦国大名寿桂尼〜」で行われ大きな反響を呼んだ。


その表情は厳しく、氏親、氏輝、義元、氏真と今川四代の「栄枯盛衰に立ち向かった女の一生」と「今川家と駿府の行方」を凝視しているようだ。


没後四百年記念に竜雲寺に建立された石碑には「歸(とつぐ)」と刻まれている。
この「歸」の印影は、寿桂尼が氏親に嫁いできたとき、父親の中御門宣胤が印判に彫って授けたものといわれている。
とつぐの碑
印判は、その後、領国支配の発給文書に使われており
寿桂尼の権力を象徴した。

だが、父親が「歸(とつぐ)」の印判を与えた本当の
意味は、権力の掌握でなく娘の永久の幸せだったろう。

この碑は父親とこの地に命を捧げた娘寿桂尼の哀しい
こころをいまに伝えている。