駿府の道と町並み

道は様々な人たちが通り過ぎるが、まず町に入る境界には見付があった。

見付は石垣をマス形に組み、道の両側に築いたもので町や城の防衛線であり番人がいた。

横田見付跡 郷土出版社「静岡市いまむかし」より


駿府城下町では、東海道の東入り口横田町に「横田見付」、西は川越町にあった。横田町の地元では、石垣の一部は第二次大戦中まで残っていて戦後の都市計画で道路の下になったという。

また道は、人々のパーフォマンスを展開する舞台でもある。全国から伊勢参宮を目的に何百万人が街道をねり歩いた「おかげ参り」もその一つであった。

江戸時代を通してほぼ60年に1回の割合で起こっているが駿府では、明和8年(1771)と文政13年(1830)の時参拝者に施行(せぎょう)したという記録があり、特に文政のくわしい記録がある。

駿府城下町模型


それは3月頃から阿波(徳島県)から始まり5月には江戸に及び、駿府城下の通過が著しく増えた。

そこで川越町の藤田屋藤右衛門が施主元になり、7月から見付に小屋を掛けて、一人につき、お茶と一合のご飯、おかずを出した。

それは一日平均1、500人を越え、前後3回延べ50日に及んで、施行を受けた人は5万42人(男・38,290人、女11,752人)という

駿府の町並みは、家康の近世的技法で碁盤の目のように町割され元和2年(1616)頃には、いわゆる「駿府九十六か町」がほぼ完成した。

「向こう三軒両隣り」ということばがあるが、駿府では道を挟んで向かい合う家々が一つの町内を構成していた。家の裏側は畑や空き地になっていて背中合わせの家は別の町内であった。

そして町内の道路の清掃は自ずと町内の責任となり、まさに我が家の庭といった感覚で大事にした。
また、駿府の町は水が豊富で「駿府用水」が町中を縦横に流れていた。このため町奉行所の水道方掛同心が見回り、清掃など浄化管理は厳重であった。

東海道図屏風(静岡市教育委員会蔵)部分



「駿国雑志」によると
今、府中町々、皆軒下通り切石をたたみて下水とし、御城御堀入の安部川上水を分水して流れとし、快晴続く時は諸所に瀬きりて大道に流しかけ、程よくしめるを見て瀬きりを取り流す。

故に水うつの煩いなく・・・・
と埃立つ道路に水を浸し環境を快適にする知恵があった。



天災と関って人々が恐れたのは飢饉であった。特に正徳、天保の飢饉は駿府に大きな衝撃を与えた。

正徳5年正月、町の年行事(町政を預かる町年寄り)は人口調査し「町人1万5、527人に米の拝借を」という訴状を町奉行所に出した。40年前の延宝3年(1675)にはお救い米1、171石相当の金子が貸してもらえた実績があったのである。しかし今回は即答はなく、ようやく4月になって、金70両の借り入れが出来た。

その間に町方の調査は繰り返されて「飢人3、057人(一時は4、600人)、死人21人(3月調査)」の訴状を出している。

また天保の飢饉では、駿府でも商家の打ちこわしが発生した。この時は幕府のお救い米4、000俵余の供出で、町方は危機を脱した。

これらの記録は静岡県立中央図書館の町会所文書「萬留帳」(正徳5年1月〜明治維新の記録36冊)に詳しい。