駿府城と堀の移り変わり

明治2年6月、廃藩置県により駿府城は政府の所有になった。しかし、跡地は放置され荒れ放題であった。
当時、城の内外に大小16の門、二の丸に御金蔵、米蔵などがあったが全て解体され木材、鉄材として民間に払い下げられた。
ちなみに最高価格で落札されたのは追手御門の303両余であった。その後も跡地は荒れるにまかせられ、雑木雑草が生い茂り狐や狸が出没したいわれる。

薬医門(静岡葵博の復元より)


こうしたなか政府の廃城処分の方針を知った初代静岡市長星野鉄太郎氏は、静岡城払下願を提出し許可を受け、初の市債を発行して取得した。城地面積 4万3358坪余、払い下げ代金 1万2197円余(坪単価3銭弱)であった。

一方、城濠水面使用許可は千代田、豊田、大谷の3カ村水利組合が取得した。

だが利用に困った静岡市は、明治29年歩兵第34連隊創設で本丸、二の丸の城跡を陸軍省に無償で献納することで静岡連隊誘致に成功した。

発掘された本丸堀


この際、天守台、本丸土手などが取り崩され本丸堀を埋め立てて平地をつくる資材になり、余りの土砂は安東錬兵場の埋め立てにも使われたという。

これをきっかけに、駿府城の外堀(三の丸堀)、中堀(二の丸堀)の埋め立てが始まった。


明治29年12月  献納で本丸堀の埋め立て、市民が労力奉仕
明治30年12月 城代橋完成
明治32年 総合庁舎裏の外堀埋め立て売却
明治39年 凱旋橋できる
明治42年12月 師範学校拡張で鷹匠町よりの外堀埋め立て
大正14年5月 教育会館建設で三の丸石垣取り壊し
昭和2年 電車複線化で追手町の外堀・堀幅9尺埋め立て
昭和3〜4年頃 裁判所と雙葉学園裏の石垣取り壊し
終戦直後 刑務所裏の三の丸堀埋め立て
終戦直後 付属小、中校の三の丸堀埋め立て
41〜42年頃 県庁裏の二の丸堀縮小し駐車場になる
43年〜55年 ニの丸堀、三の丸堀に不透水工事を実施
昭和50年3月 中堀、外堀は城濠用水土地改良区から静岡市に譲渡

外堀の埋立でできた駿府町 商店の裏に残る石垣

受難の駿府城の中堀外堀は、昭和40年代に入り「破壊から整備保存」にと軌道修正された。

これに伴い、ニの丸堀、三の丸堀の底面にビニールシートを張るなど不透水工事を実施、堀には満々と水が入り、昔日の面影を取り戻した。

復元された巽櫓


そして江戸期の正確な資料に基づき「巽櫓(たつみやぐら)」「東御門」が復元された。また駿府公園内には日本庭園の整備が行われるなど徐々にではあるが在りし日の駿府城の威容を偲ばせてくれている。