大永6年(1526)氏親は死去した。56歳であった。

家督相続は、長子の五郎氏輝が継いだが、まだ14歳と若年のため、後見役に氏輝の生母、氏親の正室中御門氏(寿桂尼)がなった。
領国経営にあたり寿桂尼は「増善寺殿(氏親の法名)の遺言により行う。しかし嗣子氏輝の親政の時代に至ったならば、氏輝の形勢にに従へ」という形で判物(文書)を出し政治を行ったといわれる。

寿桂尼像(正林寺所蔵)


寿桂尼の発給した判物は、大永6年(1526)から永禄7年(1564)の今川三代(氏輝、義元、氏真)の38年間に19通を数え、寿桂尼は「女戦国大名」と呼ばれる所以である。

やがて氏輝も成長し、父を乗り越える独自の政策を取り入れた。その主なものは「馬廻り衆」という直臣の息子たちを集めた旗本集団の強化、商業振興のため江尻宿の商人宿の「間口二間の役(税)免除」で清水湊活性を図るなどであった。

「馬廻り衆」の強化では「一字状」と呼ばれる文書で、自分の名(諱・いみな)の一字を今川一族や有力家臣団の子弟に与え、親子関係をつくり結びつきを強めた。
また戦いでは、今川は小田原の後北条と組み、甲府の武田と対立するようになった。

寿桂尼の期待を集めた氏輝は、天文5年(1536)2月に即位したが、その年の5月17日、突然死去した。24歳の若さである。同じ日、弟で二男彦五郎も死んだ。

氏輝の墓(臨済寺)


この二人の死は何を意味するのか、残された資料はなく、まったくの謎である。
氏輝の墓は、駿府(静岡市)の臨済寺にある。

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