徳川家康の正室築山殿は、今川一門の関口刑部少輔の娘といわれる。築山御前、瀬名姫などと呼ばれる悲劇の人であり家康との間にもうけた嫡男信康とともに、家康の手で殺害された。
その原因は、「母子とも武田方と内通したうえ、淫行乱行を重ねた」と織田信長に密告され、家康は保身のため母子を殺害したというものだ。
この「築山殿非難は虚言だ」という関口永氏の論文を引用し報告する。
築山殿非難の文献や読み物は、築山殿没後百余年経た江戸中期から数多く出された。また明治から現代では、小説は山岡荘八氏の「徳川家康」、戯曲は大仏次郎氏の「築山殿始末」が有名である。
築山殿の略歴(日本女子大・西村圭子教授著「人物日本の女性史」より)
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築山殿を誹謗する根拠は信長の十二ヶ條といわれている。
幕府の決定版といわれる明治維新の前に出た「三河後風土記」の改正版では次の通りである。
北方(徳姫)は御文にかかせ給ひ父右大臣駁(信長)の方へひそかに奉り給ふ
一、築山殿悪人にて三郎殿と吾身の中を、さまざま讒して(人をおとし入れる為に告げ口をすること)
不和し給ふ事。
二、我身姫はかり二人産たるは、何の用にかさ定ん、大将ハ男子コソ大事なれ、妾(メカケ)あまた召て
男子を設け給へとて、築山殿すすめにより勝頼が家人日向大和守が娘を呼出し三郎殿妻にせられ
候事(諸説を超えて勝頼に結びつけています)。
三、築山殿甲州の浪人医師減敬といふ者と密会せられ、剰へ是を使とし勝頼へ一味し三郎殿を
申すすめ甲州へ一味せんとする事。
四、織田 徳川両将を亡し、三郎殿には父の所領の上に織田家所領の国を参らせ、築山殿をば
小山田といふ侍の妻とすべき約束の起請文を書て、築山殿へ送る事(この頃の意味を考え
て見て下さい、夢物語どころではありません)。
(五、以下は三郎信康に対する訴えです。)
五、三郎殿常々物あらき所行多し、我身召使の小侍従と申女を我目前にて刺殺し共の上、女
の口を引きさき給ふ事。
六、去頃三郎殿、踊を好みて見給ひける時、踊子の衣裳よろしからず又おどりさまあしきとて
其踊子を弓にて射殺し給ふ事。 .
七、三郎殿、鷹野に出給ふ折ふし道にて法師を見給ひ今日得物のなきは此法師に逢たるゆへな
りとて、彼の僧が首に縄をつけ、力革とかやに結付馬をはせて共法師を引殺し給ふ事。
八、勝頼が文の中にも三郎殿いまだ一味せられたるには候はず、何ともして進め味方にすへし
との事に候へば、御油断ましまさば末々は御敵に組し候べきと存候、態々申上條事。
(九、以下は未発見)
右大臣この御消息を御賢し、大敵武田に一味と聞給ひてハ、ゆしき大事なればとかく
思慮をめぐらし給ふ。
六月十六日には徳川家より織田殿へ御馬をまいらするとて其の御使に酒井左衛門尉忠次参りたり。
( )内は関口 永氏の加筆
このように、築山殿の虚像は、二百五十年かけて悪女の手本のように作り上げられてきた。江戸時代の施政者は神君家康公をたたえるあまり、一人の女性をスケープゴードに仕立てたのである。
しかし逆に家康の価値を下げた結果になった。
築山殿の廟は、浜松市の住宅地の一角にある西来院にある。この一文が一人の女性に関する偽りの風聞と偏見を打破する一助になることを願っている。合掌
引用文献
「駿河の今川氏―第八集」静大大和田研究室編の
「築山殿非難」関口永著より