義元と信長、桶狭間の戦いはなかった
作者・丸 児 歩 路

「信長公記」によれば・・・永禄3年(1560)5月、今川義元は駿河・遠州・三河の2万5千の大軍を率いて西上の途についた。一方織田信長は義元襲来の報を受け、わずかな手勢を率い暴風雨の中、桶狭間に休息していた義元本隊を急襲し、これを破り義元の首をあげたという・・・。

われらが「投げ文艶草紙」よれば、これは偽りの歴史書である。真実をここに明かしたい。


永禄2年(1559)12月、織田信長は上洛して将軍義輝に拝謁した。
信長は洛中で、一人の白拍子をみそめ、これを伴い清洲城に戻った。信長は生来性格は粗野で、女子にうとかったが、この白拍子だけには心を奪われたという。
肩まで流れる黒髪は、南蛮人が献上した黒貂(くろてん)のように艶やかにゆらぎ、眸は底知れぬ沼のように群青に澄み、肌は深山の雪もかくやとあくまでも白く輝いていた。

永禄3年(1560)5月、今川義元は西上の途についた。
5月19日、この日尾張、三河の地は未曾有の暴風に見まわれていた。桑名の長命寺の過去帳によれば「大嵐は夜半より激しくなり木曽、揖斐、長良の三川は氾濫したり。多数の死傷者を生じ当寺だけでも20の新仏を葬れり。」とある。

「殿、義元の兵が沓掛の城を抜きましたぞ。」
「うーむ」
部屋の中からは、激しい吐息がもれるばかりだった。信長の耳には家臣の必死の訴えもとどかなかった。
今、信長の脳裏には二匹の竜赤竜が絡み合い死闘をくりひろげていた。
「殿、私は幸せでございます。・・・もっと抱きしめてくださいませ・・・・」
「もっと、もっと・・・・・・死絶えそうでございまする。」
花陰は殿御を包み込み、あえぎあえぎ奈落のそこへ引きずり込んでいく。
竜の首は、ぬめりと強い締め付けでどろどろに溶けんばかりであった。
信長には閃光がきらめき雷鳴が轟いた。竜赤竜の死闘はいつまでも続いていた。

午後2時、田楽狭間の狭い谷を抜けた義元軍は眼下に鳴海の宿を見た。
「殿、清洲の城は指呼の間でございますぞ」
二万五千の大軍は、尾張の野に怒涛のようになだれ込んでいった。

白拍子の名は、お吉といい伊豆下田に漂流した難破船の南蛮人と芸妓の落し子という。
長じて女忍びになったお吉は「桶狭間を抜けるまで、信長を篭絡せよ」との義元の命により信長を寝所にくぎづけにした。
この秘儀は肥後の国に伝わる「随喜」の涙を用いるが「随喜」が義元政権確立の礎になったと「投げ文艶草紙」はのべている。


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