玉桂山華陽院

華陽院は静岡駅近くの静岡市日吉町にある。
今は、市の中心部でビルや家屋が密集したにぎやかな街だが、かっては旧東海道沿いで、この辺りを八幡小路といった。

華陽院、またの名を府中寺というが安政の大地震、昭和15年の静岡大火と大きな被害を受け、今度の戦争でも大空襲で丸焼けになり墓地だけが残ったという。

墓地には、ひときわ大きな二つの五輪塔があるが、左が「華陽院殿玉桂滋山大禅定尼公」源応尼の墓である。五輪塔は上部は原型と見られるが下部は新しくつくられたといわれている。

源応尼が死んだ時、家康は初陣の陣中であった。そして没後、盛大な50年忌を執り行ったという。

並んで隣に「一照院円芳功心大清女」市姫の墓がある。市姫は、家康66才の時の末子で、幼死した。家康は晩年に生まれた市姫を可愛がり、慕った祖母源応尼公の隣に葬ったと見られる。

境内に立てられた静岡市の案内板によると「源応尼は、今川家の人質になっていた竹千代(後の家康)の養育のため岡崎から招かれ、寺の近くに住んでいた。また竹千代は華陽院によく遊びに来て、知短住職から文筆の養育を受けた」とある。

榛葉氏によると、大正時代はこの華陽院の辺りは田んぼで、前の田をへだてて東海道があった。今川時代ではまことに閑寂、幽邃な寺であったろうという。

このような辺鄙なところに、なぜ人質の竹千代が住んでいたのか、なぜ祖母の源応尼が駿府に呼ばれたのか、など疑問が残る。

円光院

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信康の自刃と墓所

天竜川と二俣川の合流点にある天竜市は、古来から秋葉山の参詣口として栄えた町である。
町の中心部の裏手の山に二俣城跡がある。その昔、今川、武田、徳川の攻防の中心になったとろろで、家康の長男信康が幽閉され、切腹した城であった。

天正7年9月15日(1579)信康は、使者の天方山城守通経と服部半蔵正成の二人を迎え「謀反して武田勝頼に一味するということは、思いもかけないことだ」と言い残し自刃した。
当時の城主は大久保忠世であったが、二俣城は翌年(天正8年)廃城になった。今は野積み形式の石垣だけが残っている。
城の東北にある清滝寺に、信康は葬られた。
裏山の石段を登ると築地の白壁に囲まれた「信康廟」が木立の中にある。廟の扉には葵の紋がひときわ目に付く。廟の中には五輪の石塔があり信康公の墓である。
廟門の向かって右側に、4基の小さな五輪石塔が並んでいる。
天竜市の書いた立札には「青木又四郎吉継、中根平左衛門正照、大久保七郎衛門忠世、吉良於初」の名がある。このうち吉良於初は、信康とともに果てた殉死者といわれている。

築山殿の墓所

築山殿の墓所、西来院は浜松市広沢町にある。
西来院は老松や大樹が森をつくっている広い寺域を有するが、本堂は戦災で焼け鉄筋づくりの近代建築である。本堂の横手に築地塀にかかまれた月窟廟があった。

天正7年8月(1579)、築山御前は護送中の野中三郎重政らに佐鳴湖畔で殺害された。享年38才、築山殿は謀反人の汚名をつけられたまま、数奇な運命を閉じた。家康公の首実検に供するため首は岡崎に送られ胴体が西来院に葬られたという。
昭和20年の空襲で墓碑は三つに割れ、今はコンクリートでつなぎ合わされている。また廟堂月窟廟は、400回忌の昭和53年に復元されたものである。

「史疑」によると築山殿の墓は、明治までその湖畔に淋しく立っていたが、当時の静岡県令関口隆吉氏が親族のよしみから私財で西来院に移したと記されている。

また、廟堂の前には一対の古い灯篭が立っているが、延宝6年(1678)に行われた築山殿の100回忌に殺害者の曾孫野中三五郎友重が祖父の罪障消滅を念じて献納したものである。

信康の首塚

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