元信と元康の「交代と成りすまし」は、隣国はもとより国内でも知られることはなく、無事に済んだ。

だが、家中の中には、新参者の家康(元信)の下風に立つのを憤り反逆を企てる岡崎の旧家臣たちもいた。その多くは叛旗を掲げたものの家康方に討ち滅ぼされた。

当時、三河の地には一向宗の一揆が起こり、反乱の火は広がった。この一揆に岡崎方の旧臣の者たちが多く参加した。永禄5年から7年にかけて、東西の三河地方一帯は戦乱の絶え間が無く、死屍は山を築き、流血は野を染め惨憺たる光景であった。

その後の家康の足跡である。

天正元年(1574)竹千代から成長した信康(元康の子)は、15才になり、「鎧の着初めの儀」を挙げた。つづいて、天正3年は長篠の大戦に出馬し、その勇武絶倫なるを敵味方の耳目を集めた。

浜松城

この頃家康公は、遠州中泉に美しい御殿をつくり、度々岡崎から信康を招いて、美女を侍らせ歓待した。一方、信康の生母築山殿(元康の妻)は岡崎の築山という別荘に、一人置かれ淋しい境遇であった。

築山殿の墓(西来院・浜松市)



そうした中、信康は酒色おぼれ、酒の上で人を切るという悪行が表沙汰になり、また築山殿は甲州から来た唐人医師を仲立ちに武田勝頼と内通の密書を交わしたことが明るみになった。



これらの件を信康の妻(信長の娘・徳姫)が手紙にしたため、父信長に知らせたことで騒ぎは大きくなっていった。

折から徳川家の重臣が清洲城に来たことから信長は「どうしょうもないことじゃ。」と両名の処分を申し入れた。重臣は、急ぎ浜松に戻り、信長の意向を家康に伝えた。


やがて、信康君は遠州二俣城に移され、お預けの身となった。そして築山殿は、その身を遠州に移される途中、浜名湖畔で殺害された。


つづく天正7年9月15日、信康は二俣城に使者を迎えて覚悟の自刃をした。

信康廟(清滝寺・天竜市)

村岡は「世人は、家康の親子、夫婦に対する愛情を批判するが、元来は信康とは親子では無く、築山殿とも夫婦の契りは交わしていない」としている。
そして築山殿を歴史、伝記が伝えるような嫉妬深い女、毒婦として悪名を伝えられることは、まことに気の毒で、その無実を証明したいと述べている。

重ねて、村岡は徳川家康公の出身は「ささら者」であったが、これをもって家康公の威徳をかれこれいうものでない。

家康公は応仁以来百余年間の天下麻の如く乱れしを、雨に打たれ風にさらされ、つぶさに辛酸をなめながら、その知力は絶倫、勇武は神のごとく、民を塗炭の苦しみから救い、三百年の泰平の世の基を開いたのであると力説している。

日光陽明門


そして日光廟の壮麗さは天下に比類なく、家康公の功績とその名は不朽であるとしている。

筆者榛葉英治氏は、村岡素一郎の作品につき、次のような批判を述べている。

素一郎は、この本を書く場合に歴史学者のような科学的方法をとらなかった。彼の調査した史実や文献の全てを掲載していない。
もつとも村岡は「自分が集めた断簡碑碣等を基礎にし、この経過には、往々筆者の胸臆に出づるものあり」と断っている。だが、「好んで憶測をたくましゅうするものでない」とも述べている。

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