19世紀、蒸気船の出現により世界は大変化の時を向かえた。
欧米列強国は、アジヤに勢力を伸ばしてきた。隣の清国はアヘン戦争で敗北し、次の標的は鎖国日本であった。
嘉永6年(1853)6月3日、米国ペリー艦隊4隻が江戸湾入り口に出現した。
静岡市東部にそびえる竜爪山、その麓の平山村の滝家に伝わる「古今萬記禄」の記録からその騒動を伝える。
「・・・・船ノ長サ五十七間、幅三十七間、高サ三丈、帆柱ノ長サ十四丈ト云フ。・・・・嘉永七年寅一月十二日、右御回状参り・・・・異国船打渡リ候ニ付、鉄砲所持ノ者玉ぐすり用意致シ申スベシ。・・・・西嶋村ヘノ御固メノ儀ハ追ッテ触出シ・・・・宮ヶ崎役所」
太平の眠りに浸っていた平山村の人々にとって、晴天の霹靂であった。
この回状は、ペリー艦隊2回目の来航前後である。
「・・・・山中村々ニテ、鉄砲稽古人二十人、府辺村々ニテ人夫五十人急ギ出府仰セ付ケ被レ候侭・・・・御用場迄早々召シ連レ・・・・寅正月二十三日、宮ヶ崎役所」
1万石の小藩の小島藩は、山の猟のための鉄砲所持許可者を登録させ、いざという時の戦力とし稽古していた。皆百姓である。
「西嶋村ヘノ御固メノ儀ハ、当正月十三日ヨリ十六日ノ夜迄・・・・退帆ノ様子ニテ引取リ・・・・」
実際に浜辺を警備したのは、4日間であった。
ここに、一つのエピソードがある。
「・・・・当村勇ヱ門儀、新規張置候鉄砲持参ニテ・・・・奇特ノ至二思シ召サレ・・・・」勇ヱ門は、領民の模範として、小島藩主松平丹後守より金三両の御褒美を頂戴したとある。
ところで、最初の1月12日付けの回状は、ペリー艦隊江戸湾進入より4日早い。
また、「退帆ノ様子ニテ引取リ・・・」とあって、嘉永七年の第2回来航の史実と相違する。
郷土史家奥山賢山氏は「・・・・実は鉄砲隊が大浜海岸に出張ったのは、ちょうど中国の船が沖合いで難破した。この船を黒船と見誤つたらしい・・・・・」
いずれにしても火縄銃を担いで浜辺に駆けつけた人たちの心境は如何だったろうか。
黒船来航が、当時の日本全国を震撼させていたのである。
引用文献
「竜爪山−神仏習合の歴史についての一考察−」(奥山賢山著)
著者の住所:静岡市平山508
「日本の歴史」[小西四郎著)
挿絵・松永繁雄