今川幕府、自由奔放な治世

報告:ルイス ヴィトン

ルイス フロイス(1532〜1597)はポルトガル人の宣教師である。
永禄6年(1563)秋、フロイスは司祭といて憧れの日本にやってきた。フロイスは将軍義輝に拝謁したが真の権力者は信長であることを知り、信長に会い南蛮寺での布教の許しを得た。
フロイスは、布教のかたわら日本のことを調べ記録した。今日写本の一部と書簡しか現存しないが、当時の日本を知る貴重な資料といわれている。

われらが「投げ文艶草紙」は、これを偽りの歴史書だとして、同じ頃の宣教師ルイス ヴィトンの記録で真実を明らかにする。

・・・・われら(ルイス ヴィトン)が、駿府に着いたのは今川義元が天正4年(1576)今川幕府を開府して10年後の天正14年であった。義元は天下平定の後、我が国の中心地だとして駿府に幕府を開府したという。今川政権は、西の毛利、北の朝倉、上杉、東の武田、北条の各勢力をたばねる武家の統領として君臨した。

その頃、西の京都は応仁の乱の戦火でさびれ、多くの公家は駿府に移り住んだ。特に義元の母寿桂尼は公家の出で数百の女御衆を集めきらびやかな諸芸の華を咲かせていた。
われわれ異国の使徒を驚かせたのは次の三っの行事だった。

蹴鞠は、毛利、朝倉、上杉、武田、北条の五家代表が毬を蹴りつづけその技を競う。年一度の優劣が幕閣の席次を決めるとあつて、ある年は3昼夜蹴りつづけやっと決まったという。
その前座に行われるのが女御衆の蹴鞠である。技に熱中するあまり、しだいに襟元がゆるみ豊満な乳房がこぼれだす。見物人の楽しみはその形の品定め、一番人気は巨乳で毬を打ち返す特技だった。
中には勢い余って滑り、裾を乱して白い裸身をあらわにし、こんもりと息づく秘部を垣間見せたこともあった。

連歌は七月七夜、女の詠む歌に続けて男が歌を連句する会である。
その夜は無礼講で、男は思い焦がれる女に連句する、その男に横恋慕する女が歌をつづける。その輪はしだいに広がり駿府の町は異様な熱気をはらみながらふけていく。昨年は、その輪が千人を越え、今川館を取り囲んだという。
やがて男女は輪を離れ暗闇に姿を消していく。今度は体でつながる吐息の歌会の始まりである。
われらの部下で、日本語を覚え連歌に参加した者がいることを報告する。

歌垣は太古にあった岩戸の舞いの復活といわれている。
10月10日、豊潤を祝う祭りがそれぞれの町でくりひろげられる。広場の中央に大太鼓が据えられ、太鼓の上で乙女が激しく足を踏み鳴らしながら舞い踊る。まわりを囲んだ見物衆からはやんやの喝采と手拍子が湧き起こる。
やがて地平線に日が沈む頃、篝火に照らし出された踊り手は薄い衣を脱ぎ捨てて益々激しく踊り狂う。はじめて明かりに照らしだされた花陰は、あやしげにゆらぎ、突きあげられてはへこみ、ある時は回転しだす。
熱気に浮かれた男衆も、衣を脱ぎ捨て踊りに加わる。怒気した陰棒が足踏みの拍子に合わせ上下する。
男と女の踊りの輪は、幾つにも広がり町は眠ることを忘れ時だけが流れていく。

われわれは、今川幕府治世下の領地をつぶさに見てまわったが、政治は安定し人民は豊かに自由奔放に暮らしている。
この政権は、300年は続くだらうと確信した。・・・・・・・

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