村岡素一郎が主張する家康の出立に関する説明を次のように要約する。

  1. 家康公の遠祖は、もともと松平氏とは関連のない別系である。

  2. 家康公は駿府の「少将の宮の前町」(今の伝馬町)に誕生し、幼時は近くの華陽院境内で祖母の源応尼に養育されていた。村岡はその記録は、華陽院にある家康公自筆の扁額(昭和15年の静岡大火で焼失)に書いてあると主張する。

  3. 家康公の生父は、下野国都賀郡小野寺村出身での江田松本坊である。松本坊は新田の系統で放浪の末、駿府に来て源応尼の娘於大と結ばれ家康公が誕生した。幼名を国松という。江田松本坊は、ほどなく駿府を去り行方知らずになったという。

  4. 祖母の源応尼(俗名於万)と娘の於大は、少将の宮の前町に多く居住していた「ささら者(三味線に合せ説教する賎民)」であるという。この境遇の中で家康公は育ち、老尼の慈愛と見識によって成長したと見ている。

    徳川家康の出身が当時の社会の底辺にいた「簓(ささら)説教者」とい指摘が、著作「史疑  徳川家康事蹟」を、店頭から姿を消させた最大の理由であろう。

    華陽院(静岡市伝馬町)

    また、筆者榛葉氏は、通史では、祖母の源応尼は水野忠政の側室から松平清康の側室になり、家康の生母お大を生んだというが、その出身、経歴またなぜ駿府に住んでいたのか疑問が残るとしている
  5. 家康公は、自然児として育ち、かつ東照山円光寺の智短上人から学問の手ほどきを受けた。しかし、殺生禁断の今川家の菩提寺増善寺内で小鳥を捕まえ、上人から破門の憂き目にあい放浪の身となった。
    その時、又右衛門という悪党により、銭五貫で願人に売られた。家康公が9歳の時であった。

    公が駿府の臨済寺で修行を積んだという事実は無く、後世のつくりごととしている。
  6. 家康公を買った願人は、八幡小路(少将の宮の前町)に住み酒井常光坊と名乗っていた。願人は妻帯肉食の修験者で諸国を歩き、加持祈祷をしてた俗法師である。家康公は常光坊とともに9才から19才まで、山野を駆け巡ったが願人の多くは官府の隠密、隠し目付を働いていた。

    村岡は、八幡小路の円光寺で「家康公の遺物という径八寸ばかりの小形な古編み笠と紺麻の法衣の一片を笠にくくりつけたもの」を見せてももらったという。

  7. 永禄3年(1560)正月、公は19才になった。元旦の日、信州山里の林藤介の家で「兎の羹(あつもの)」を食べた。これが江戸の柳営の正月吉例嘉儀となった。
    この頃、中原の鹿を狙う諸将が各地に立ち、争いを始めていた。駿府の今川義元も大軍を率いて西上した。これらの時機に合せて、公は、同士を糾合し、公の下に多くの仲間が集まった。

  8. その頃、三河岡崎の領主松平蔵人元康の嫡男竹千代は、人質として駿府の館にいた。生母は関口氏の娘築山殿である。

    家康公と仲間たちは、竹千代を誘拐し遠州に出奔した。そして掛塚港の服部平太の家に預けた。その時、家康公は「世良田二郎三郎元信」と名乗っており、兵や武器を集め旗揚げの機会を待っていた。

    村岡は岡崎の領主松平蔵人元康と築山殿が夫婦で、その嫡男竹千代が後の岡崎三郎信康であるとしている。

  9. 今川勢は、岡崎の人質拐帯で、世良田元信の親戚一族、祖母の源応尼らを捕らえて牢に入れた。そして義元軍の出陣にあたり、老尼を八幡小路の軍人坊(現在の軍神社)で殺して生贄にして気勢を挙げた。

    軍神社(静岡市曲金)

  10. この年、尾張の桶狭間で今川義元は織田信長軍の奇襲にあい討ち死にし全軍大敗北になった。この時、世良田元信の一党は井伊氏が守る浜松城を襲い、初めて城を手中にした。

世良田二郎三郎元信(後の徳川家康)とその一党は、初めて城を手にし、東三河への侵略を始めた。その手中には、駿府から拐帯してきた岡崎の幼君・竹千代がいた。彼らは幼君を、どこへ連れて行こうとしているのか。

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