父義忠の不慮の死の時、嫡子竜王丸は、わずか6才だった。それは文明8年(1476)4月6日のことであった。家中に衝撃が走り家督争いが再燃した。
「まだ6才の子どもに国事を任せるのは無理」とする意見が噴出し、嫡子竜王丸を立てようとする義忠の夫人北川殿の今川一族らと義忠の従兄弟小鹿範満を推す家臣団で家中は真っ二つの割れた。この争いを「文明の内訌」という。

大田道灌が布陣した八幡山

この今川家の内訌に干渉しようと関東管領上杉氏の家臣大田道灌や伊豆・掘越公方の家臣上杉政憲が駿府に兵を出し争いに介入した。駿府の居館には小鹿範満らがいるため北川殿は竜王丸を連れ志太郡小川(焼津市)の法永長者(長谷川正宣)のところに難をのがれた。

北条早雲像(新幹線小田原駅前)

この調停に乗り出したのが伊勢長九郎(後の北条早雲、北川殿の兄)であった。長九郎は「竜王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行する」という折衷案を出し双方の合意を得た。

しかし、小鹿範満は竜王丸が17才になっても家督を返そうとしないことから、長享元年(1487)11月9日、伊勢長九郎は突然駿府館に攻め入り、範満一門は自害した。

元服した竜王丸は、今川氏親(うじちか)と名乗り領国経営に乗り出した。足利政権下の守護大名の多くは京都にいて領国不在であったが、今川家は初代範国からの領国政策を守って在地大名であった。

今川氏親の木像

氏親は叔父の伊勢長九郎の援助により、念願の遠江を攻略し更に東三河にも進出、また東では武蔵にも軍を進めた。このころ、伊豆堀越公方では、内紛が起こり機に乗じた氏親は、伊勢長九郎に堀越御所攻略を命じた。
やがて堀越一門を滅亡させた伊勢長九郎は、韮山に城を築き伊豆一円を手中にし、さらに小田原を攻め相模国を制圧していった。

また、氏親は積極的に領国経営を進め、土地と農民を直接掌握する検地を実施するなど守護大名から戦国大名に脱皮していった。そしてその具体化したものが分国法といわれる「今川仮名目録三十三か条」の制定であった。この法典は、後に武田信玄がつくった「甲州法度之次第」に深い影響を与えるなど画期的なものであった。

安倍奥の梅ヶ島(静岡市)

氏親の業績として様々な産業の振興が挙げられるが特に安倍金山の開発がある。
それまでの金採取は、砂金中心であったが、このころは金鉱石を坑道をうがち採取する工法になり、金産出量が飛躍的に増えた。

斜面に残る複数の石垣 住居跡の石垣


坑道掘り技術は、永正13年(1516)の遠江引間城(浜松城)攻略で、城の下に坑道を掘り、城の井戸を涸らし落城させたというエピソードを残している。


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