四代範政(のりまさ)は、領国経営の本拠地を、駿府(静岡市)に移した。これは泰範の死後、遠江の守護職が斯波氏に移り、今川範政は駿河一国の守護となったためといわれる。

昭和初期の四足門付近
(郷土出版社版「静岡市いまむかし」より)


今川氏の居館は、駿府城四足御門辺り(静岡市立病院付近)といわれるが確定するものは無く、今後の調査研究が待たれている。

そのころは、荘園制度が崩壊し守護の権限が拡大する時期であった。
鎌倉時代の守護の権限は


南北朝・室町時代になると


こうして守護職は領主化し、守護大名へと成長していった。

静岡市内


応永23年(1416)鎌倉公方の足利持氏は、不満を持つ関東管領上杉禅秀に急襲され鎌倉を逃げ出し、駿府の今川範政の元に逃げ込んできた。これが「禅秀の乱」である。室町幕府は、上杉禅秀を討つよう今川範政に命じた。今川勢の働きはめざましく上杉禅秀ら一門は自刃し果てた。

静岡市内から見る富士山

禅秀の乱の後の永享4年(1432)、新将軍義教は鎌倉公方に対する示威行動と見える「富士遊覧」の名目で大軍を引きつれ駿府に下向した。範政は、国を挙げて歓待し、駿府に迎賓館「望嶽亭」を建て歌会などの宴をくりひろげた。

室町幕府は、京都に反抗する鎌倉方の抑えとして中間地点の今川氏を重視し、今川一門は隠然たる勢力を東海一円に広げていった。

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